祖父はもともと心臓が悪かったが、私よりも早く歩くくらい元気な人だった。しかし今月の頭から急に体調が悪くなり入院。祖父の家と病院に私が行ったのは、たった二回。
食事を食べないということを病院スタッフから聞き、少し面倒と思いながらも病院へ行った。
病室の扉を開けると目に飛び込んできた姿は、自力で起き上がれずもがく祖父。
一緒に入院していた(ベッドは隣)祖母をずっと呼び、手を貸せ、起き上がらせろ、背中さすって、といいつづける姿。目も開けず、息をきらして。
正直ショックでした。私が一週間前に会った祖父は私の顔を見るだけでコニコしていたから。
老人は赤子に戻る、とかなんとか言葉を聞いたことがあります。まさにそれで、駄々をこねるかのよう。
三時間以上一緒にいましたが、とにかく息が苦しそう。話しかけながら、私は少し泣くことを繰り返した。
ずっとベッドに寝ていたせいか腰がいたいと言ったので、マッサージし続けた。
そんな祖父が目も開けられず息をきらしながらも、はっきり言った言葉が3つ。
1つは自分が死んだ時のお墓の希望場所。
2つ目が『●●ちゃん。バイバイ。俺もうだめ』
そして3つ目が『●●ちゃんがいてくれて良かったぁ』
私はただただ言葉をかけつづけ、祖父の体をさすり、手を握りました。目が潤みました。
看護師の話では、今すぐどうこうなるという訳ではなくとにかく食事をとらないのが問題だと言われ、夕方遅くになって私は病院をでた。明日また来るつもりで。
自宅にたどり着いて10分後、病院から祖父が危篤と連絡があり慌てて病院へ。
病室に入ると何人かのスタッフと医者。心臓マッサージをされながら酸素マスクをはめている祖父。
もうぐったりとしていた。
死亡確認後、亡くなった祖父と病室で二人きりにしてもらった。
死ぬときに最後まで残るのは聴覚だとどこかで聞いたことがある。
だから私は、今までの感謝と、孝行しなかった謝罪。そして祖父を愛していたことを話し続けた。
手を握ると冷たかったが、首はまだ温かく、私は祖父の胸に顔を埋めて泣いた。
ある程度覚悟を決めていたと思っていたが、声を出して泣いた。
大学に入ってから3年、『忙しい』という理由に祖父を鬱陶しがり避けてきた。家が近いから、祖父が私の家に急にきても追い返していた。
そんな扱いをする私を祖父はずっと気にかけ、入院中1週間の間も私の名を呼び続けていたらしい。
私は結局、亡くなる日に来ただけだった。それに、最後に祖父に私の笑顔を見せたのはいつだっただろう。私はいつも面倒そうな顔をして接してきた。
もっといっぱい話せば良かった。
もっと笑ってあげたら良かった。
ご飯とか作ってあげれば良かった。
もっと祖父と関われば良かった。
救いは、隣で横になっていた祖母が気付かぬほど、眠るかのように亡くなったこと。87歳まで生きたし、最後は苦しまずに亡くなったらしい。
このまはまでは胃ろうになるかもと心配していたため、体に傷をつけずに安らかに眠れて、ある意味良かったと思う。
思えば寂しい思いばかりさせていただろう。
後悔の気持ちがある。
でも私が謝ってばかりじゃ、きっと祖父も気が滅入るだろう。
明日は通夜、翌日は葬儀だ。
いい思い出を思い出しながら。胸を張って送り出せるといいな。
いつもいつも、顔がしわしわになるくらい笑顔だったじいちゃん。
息が苦しいというくせに、難聴だからかなり大きな声がデフォルトのじいちゃん。
絵がうまいのに、キツネだけが何故かタヌキみたいな絵になるじいちゃん。
色盲だからピンクを灰色って言って、幼き頃の私を困惑させたじいちゃん。結局病気のことはじいちゃんの口からは聞かず、内緒だったね。
私と散歩すると変な鼻歌(私の名前を入れて)を歌うじいちゃん。
ハイチュウを『チューインガム』ってよんで、いつも懐に幾つも持ち歩いてたじいちゃん。
口喧嘩がコミュニケーションみたいで、ばあちゃんと喧嘩ばっかりのじいちゃん。
原付で急に来て、ピンポンを連打するじいちゃん。
今思うと本当に可愛くて不器用で頑固で優しい人だった。
私のことを天から見守っててくれるといいな。
じいちゃん、長い間色々とありがとう。
ずっと大好きだよ。私にとって最高の最愛のじいちゃん。