僕はなるべく平静を装って、彼女に悟られぬよう切り出す。
「若王子です、来週の日曜は空いてますか?」
用件のみ言って電話を切ったあと、ため息を吐いて壁にもたれかかる。
「僕はいつまで良い顔しなきゃいけないんだろう…」
それは詰まる所、最終的に2人が両想いの場合とはたまた彼女が彼に振られるか、または告白する前に諦めるかのどれかだ。
彼との恋を応援するなんて口実で彼女をデートに誘い、帰りに相談を受けるのがここ最近のやりとりだ。
恋をしている彼女の表情はまるで咲き始めの薄紅色の小さな花を連想させる。
それは決して誰にも摘まれてはいけない。分かってる。そんなことしたら一瞬にして散ってしまうことくらい。
「…考え過ぎだ」
答えの出ないことばかり考えて悶々とするのにも疲れてしまった。
余計なことをあれこれ振り払う様に頭を2、3横に振って、部屋の電気を消した。
この感情を恋と呼ぶのなら、人間とは本当に業が深い生き物だ。まどろむ思考ではそんな後ろ向きな答えしか浮かばなかった。
約束の日の当日、予定よりも早く待ち合わせ場所にいる僕を少し遠くで見つけた彼女は慌てて駆け出した。
咄嗟に僕も彼女の元へ駆け寄る。
「落ち着いて、転んじゃいますから」
「す、すいませんお待たせして…はぁ」
肩で息をする彼女の背中をさすりながら、僕の胸は騒ついていた。
(いっそこのまま抱きしめしまいたい)
こんな心の声を彼女に聞かれたら幻滅されるだろう。邪な感情がよぎったが、彼女の声で現実に引き戻された。
「若王子先生?」
「あ…ごめんなさい、それじゃあ行きましょうか」
「あの、どこか具合でも悪いんですか?目の下クマ出来てますよ?」
「やや…これはですね、昨夜猫たちが急にお友達を連れてきたせいでなかなか寝かせてもらえなかったんです。トホホ」
それは大変でしたねと笑った彼女の横顔を見て上手く誤魔化せたことに安堵した。
本当は君のことを考えていたんだ。
僕は心の中でその無邪気な横顔に訴えた。こうして君といられるのもあとどれくらいかな。
「潮風が気持ち良いですねー」
「うん、波も穏やかだ」
「先生…あの、ちょっと相談が」
ああ…今日も聞かれるのか。条件反射で僕は少し憂鬱になる。その理由としてはこうだ。
先生、女の人にドキッとする瞬間はなんですか?
キスってどう思いますか?
上手く気持ちを伝えるにはどうしたら良いですか?
と、いつもこんな調子だ。
聞く相手を間違ってるよなんて言えないし、何より自分から友達の立場として話を聞いてあげるだなんて教育者らしいことを言ってしまったお陰でこうなっているのだ。
でも今日は違う。今日質問するのは僕だ。
「ねぇ小波さん」
「はい?」
「僕たちはこのままでいいのかな?」
「このままって…」
彼女は虚を突かれ目を丸くする。その表情に僕は少しだけヤケになる。
「もしも……」
目を閉じて逡巡した後、一息で言う。
「もしも僕が本当は君が思う様な先生じゃなくてもっとズルい大人だったとしたら?」
「…えっ?」
僕はジッと彼女の答えを待つ。
「えっと…先生がズルい大人だなんてそんなこと…あり得ません」
その言葉でついにカッとなった。
これじゃいつまで経っても僕は土俵にさえ上がれない。
「今君が言ったのは模範解答だ。でも正解じゃない。この意味が分かる?」
「えっ…先生あの…」
堪らず、僕は強引に彼女の頭を自分の胸へと引き寄せた。
そしてそのまま腕を彼女の細い腰に回し、抱きしめた。
夕陽が沈みかけて、空はゆっくりとオレンジから藍色に染まり始める。
僕たちが恋人同士だったらなんてロマンチックな光景だろう。でもそうじゃない。彼女の肩が震えているのに気付いて、僕はそっと身体を離した。
「恐がらせちゃったかな…ごめんね」
「いえ……」
彼女は俯いたまま顔を上げない。もしかしたら泣かせてしまったかもしれないと、屈んで彼女の顔を覗き込んだ。
その表情に今度は僕が虚を突かれる番だった。
「みっ…!見ないで…ください……」
そのまま勢いよく、くるっと背中を向けられた。
今が薄暗くて良かった。
彼女につられて、僕まで赤面してしまったから。僕は彼女から目を逸らし顔半分を手で覆い隠す様にして言った。
「じゃあ、帰りましょうか…」
「は、はい……」
来た時よりも僕たちの歩く距離は離れたけど、きっとこれが正解なのだ。
時折僕は足を止めて振り返り、彼女が近付いて来るのを待つけど、そうすると彼女はその場で立ち止まりそっぽを向いてしまう。
でもそれが嫌われた仕草ではないと分かる。
なぜなら街灯に照らされた彼女の耳がまだ真っ赤なのがその証拠だと思うから。
「もう着いちゃいました」
「送っていただいてありがとうございます…」
まだこっちを見ない彼女に僕はちょっとだけ意地悪をする。
「…そんなに嫌だった?先生悲しいです」
「えっ!?ちっ違くて!!」
彼女は大きな身振り手振りでブンブンと何度も手を振った。
これ以上何か言わせるのは流石に可哀想かなと思い、それじゃあまた学校で、と言いかけたところで、彼女が何か言った。
「ん?今何て…」
「…っ先生の…!」
控えめな声で、語気を強めて彼女は言った。でもその時僕が彼女に顔を近付けたのは間違いだった。
「…さっき先生の鼓動が速くて…それがうつっちゃったんです…!」
耳元で囁かれた。
言うと彼女は身を翻して、
「おやすみなさい!」
と言って家の中に入っていった。
僕は囁かれた方の耳に手を当てて、
「ボルケーノです…」
としか言えなかった。
それから帰路を辿って家に着いても暫く身体の熱が引かないし、汗もよく出る。…もしかしたら風邪を引いたかもしれない。
でも、今夜はよく眠れそうだ。