わたしの宇宙。
小さなビー玉。
深い黒のような、よく見れば紺色のような。
中には金色の小さなキラキラがたくさん散らばっているような。
時々、銀色だったり、ちょっと翠がかってたり、そんなキラキラも在るような。
ポケットの中で、色んなものとガチャガチャぶつかって、表面にたくさんの小さなキズが出来てしまった。
それでも、太陽にかざせば、中のキラキラは存在を主張し、月にかざせば静かにそこに在るような。
わたしの宇宙。
わたしの人生。
今日は晴れ、ちょっとだけ雪。
近頃なんだか、いろんな思いを感じることがあって、ここにきて、あー、つかれた。って、なってしまった。
(悪い感情ばかりじゃなかったんだけれど。)
だからふらっと、教会によってきた。
私が小さいころ、保育園の施設内にあった教会。
開かなそうに閉じ切った扉は、ドアノブをひねったらちゃんと、開いた。
靴箱に、あんまり履きやすくない私の背伸びした靴を置いて、ちょっと埃っぽいスリッパに、足を収める。
中には誰もいなかった。
火の気のないだるまストーブがぽつんとおいてあった。
わきの棚に、すこし窮屈そうにしまわれてる、聖歌の本を一冊かりる。
くたびれて、壊れそうなこの本をみながら、きっとたくさんの人が神様に歌をささげてきたのだろう。
左側の、前から二列目。席を借りる。
木の椅子は、とても見覚えがあって、そして懐かしかった。
わたしが幼いころ、歌を歌って、誕生日をお祝いしてもらった、あの教会のままなのだ。
こころの中で、謝りたいこと、助けてほしいことを祈ると、教会の中の寒さが、なんだか自分のことじゃないみたいに感じた。
神父様もいないし、シスターもいない。
それでも、私は助けを求めたし、謝っていたし、手を組み頭を下げた。
ステンドグラスからさした光が、一瞬、まぶしかった。
「まりあさまのこころ それはあおぞら」
「いつくしみふかき ともなるいえすは」
この2曲は、幼いころよく歌っていたのだけれど、
残念ながら、本の中から見つけることはできなかった。
名前をつけたり、
形で区別したり、
無理やり枠組みを作ろうとしたり、
わたしたちの世界は、そんな窮屈じゃない。
勝手に窮屈にしてるのは自分以外の何者でもないのだ。
私が何かを嫌うことも、
私が誰かを好くことも、
決して誰かにしばられることもなければ、
責められることもないはずだ。
なまえ、かたち、わくぐみ。
そんなもののせいで手に入らない幸せが、
どれだけ勿体無いものか。
「その時にしか書けないもの」
というのが、あると思う。
わたしが好き勝手書いてる女子校パロは、
もともとは高校生の時に書いていたもので、数年たって、また細々と書くに至っているんだけど。
「高校生のわたしじゃないと書けないものがあるんじゃないか。」
そんな気持ちで書いていたのを、よく覚えている。(むしろそれがテーマでもあった)
だから、もう高校生じゃないわたしが書いてる女子校パロは、もしかしたら昔とはまた違ったものになっているのかもしれない。
「高校生のとき、大切にしたかったモノを、大切に。」
今のテーマは、ちょっとこれに近いかもしれないね。
言わなきゃ分からないし、別にどうでも良い話なんですけど。
ソーダ水ごしでみる景色とは、どのようなものだろう。
(ソーダ水ごしでは)あなたが揺れちゃって、とある歌では言っているけれど…。
今まで、ソーダ水を通して、何かを見ようとしたことは無かったからなあ。
泡がたくさんはじけてる、透明、ソーダ水。
揺れると表現したくなる景色が、そこにはあるのだろうか。
わたしはソーダ水ごしに、何を見てみよう。