「ねえユーリ」
手にした一粒をじっと見つめてカロルが首を傾げた。
「なんだよ。どうした?」
「んー…なんか気になっただけなんだけどさ、なんでここだけこんなにくっきり黒い筋が入ってるのかなーって」
夕食の調理をしていたユーリが手を止めて振り返った。
カロルが手にしているのはそら豆だ。そう珍しい食材でもない。が、今まであまり使ったこともない。たまたま立ち寄った先で手に入れたので食事に使うことにした。ただそれだけだ。
「カロル先生はそら豆見るの初めてか?」
「違うよ!だからたまたま、なんとなく気になっただけだってば」
「ふーん…」
どうでもいい、と言いかけてふと思い出したことがあった。子供の頃に聞いた話だ。聞かせてくれたのが誰だったか…それは思い出せなかったが。
「糸がなかったんだよ」
「…はい?」
きょとんとするカロルに、ユーリは子供の頃に聞いた話を教えてやった。
そして、『言うんじゃなかった』と軽く後悔することになるのだった…
煌々と揺らめく炎を見ていたら、なんとはなしに夕食前の出来事を思い出してしまった。
手元の薪を一本その中に放り込むと、一瞬だけ炎が大きくなる。弾けた火の粉を手で払い、その僅かな熱にユーリは眉を顰めた。
熱さが気になったと言うよりは、なんとなくすっきりしない気持ちを少しだけ刺激されて不機嫌が増した。そんな感じだ。もっとも、不機嫌と言っても別に腹を立てているとかそんなことではない。
ただ、『ガラにもないことしたかな』と思うと恥ずかしいような、でも別に笑われることでもないような、なんとも言えず複雑な気分だ。
「どこで聞いたんだっけなあ…」
つい口に出してしまっていた。
カロルに語ったのは、確か子供の頃に聞いた話だった。お伽話と言えるほどのものでもない、もしかしたら幼い自分たちにその話を語って聞かせた本人が適当に作ったものかもしれない、その程度のものだろう。これといって感動を覚えたとか、そんな記憶もない。
事実、ついさっきまで思い出すこともなかった。
「…まあいいか…」
「何がまあいいか、なんだい?」
穏やかな声にユーリが振り向くと、暗闇の中で淡く炎に照らし出されて一人の人物が立っている。その人物はゆっくりとユーリの横を通り過ぎ、炎を挟んで向かい合わせに腰を下ろす。白銀の鎧が橙に染まっていた。
「そういや…おまえもあの時いたっけか」
「…なんの話かな」
「ガキの頃にさ、なんでだったか近所のダチばっか集まって誰かの話聞かされたろ。覚えてないか」
「誰かの、って誰のことだ?話って?ちゃんとわかるように話してくれ」
しかし、『それ』を話すことはカロルに笑われたようにもしかしたら目の前のフレンにも笑われるかもしれない、と気付いてユーリは唇を尖らせた。無意識の表情はそれこそ幼くて、フレンが小さく吹き出した。
「なに笑ってんだよ、まだなんも言ってねえぞ」
「いや、そうじゃなくて…。まあ、自分じゃわからないものだよね」
「はあ?」
「子供の頃から変わらない。都合が悪くなるとそうやってほっぺたを膨らませて、目を逸らすんだ。わかりやすいな」
「…そうかよ」
「ほら、また」
むっつりとした表情のまま、黙ってユーリが薪を炎の中に放り込んだ。また一瞬火の粉が弾け、木がひび割れて乾いた音が辺りに響く。
「…誰にでも、というわけじゃないけどね…」
「あ?なんか言ったか」
「何も」
フレンの呟きは木の爆ぜる音にさえかき消されてしまうほど小さく、軽く俯いて炎を見つめる口元が微かに笑みを浮かべていた。ユーリもそれ以上追求する気はないようだ。突っ込んで聞けば、また笑われそうだと思っていた。笑われたくなくて黙ったのだが、どうやら失敗だったらしい。今日は厄日か。
「それで、何の話だったっけ」
「もういいわ」
「話を振ったのは君のほうだろ。気になるじゃないか」
「そんな大した話じゃねえんだよ。忘れろ」
「気になるなあ」
笑顔のままで話の続きを促そうとするフレンに、ユーリは肩をすくめて小さく息を吐いた。こうなったらもう、ごまかすほうが面倒なのだ。別に後ろ暗い話でもないし、フレンがこの話を覚えていれば自分もすっきりする…かも、しれない。そう思った。
「ほんとに大した話じゃねえからな。ちょっと思い出せなくて気になったっていうか、そんだけなんだよ」
「わかった。それで?」
「……そら豆の話なんだけどさ」
なんだそれは、とでも言いたげに眉を寄せ目を瞬くフレンの様子に、やっぱり話すのをやめようか、と早くもユーリは己の記憶の曖昧さを呪わずにいられなかった。
そら豆には黒い筋がある。
それがなぜなのか、ということを物語仕立てにしてあるだけなのだ。幼い子供に絵本で読み聞かすような、他愛のない内容。単純で、簡素な作り話。だからユーリも覚えていたのかもしれない。普段思い出すことなどなかったのに、きっかけを得たらするすると内容が頭の中に甦った。
それをカロルに話してやったら、『ユーリの口からそんな話聞くのって、なんだか意外で』と笑われた。物語の内容そのものも笑い話ではあるのだが、『自分が』こうやって誰かに語って聞かせてやること自体を笑われてしまうと、今ひとつ釈然としない。気まぐれで、むしろユーリはカロルを笑わせてやるつもりではあったのだが、思ってもいなかったポイントで笑われることになってしまった。
なんでこんな話をしたのか…と考えていたら、そもそもどこで聞いた話だったか、というところに思考が行き着いた。それなりに覚えている話の内容とは反対に、それを聞いたであろうシチュエーションについての記憶はおぼろげだった。
はっきりと覚えていることと言えば、その場にはフレンもいた、ということだけだ。
「どうせこういう話すんのって、ハンクスじーさんか箒星の女将さんぐらいのもんだと思うんだが…のわりにゃ全然思い出せねえんだよな、その時のことが」
「うーん…その話も僕はなんとなく、でしかないなあ」
「そうなのか?」
「君がいたのは覚えてる。他にも何人か、歳の近い子供がいたことも。内容については、そういう話だったかな、程度だね…人に聞かせてあげられるほど、ちゃんと覚えてないよ」
「なんでだろうなあ」
「さあ…僕にとっては、君がそこまではっきり覚えてるってことのほうが意外だけどね。そんなにそら豆が好きだったっけ、ユーリ」
「いや全く。そっか、おまえも覚えてないんだな。なんでこんなこと覚えてんだろうなあ、別に感動する話でもなけりゃ、そこまで面白いとも思えねえのに」
「それは今の君にとって、だろう?」
「?」
幼かった頃のユーリには、もしかしたらとても面白いと感じたのかもしれない。だから話の内容だけが強く記憶に残って、その他のこと…周りの状況だとか、語ってくれた本人のこととか、そのあたりはあまり覚えていないのではないか。
そうフレンに言われて、ユーリは首を捻る。当時の自分の感性などどうでもいいが、そんなにもこの話を気に入っていたかと言われればそこは疑問だ。なんせ、今まで思い出すこともなかったのだから。
そんなユーリの様子をじっと見ていたフレンだったが、おもむろに口を開くとぽつりと言った。
「僕が話の内容をあまり覚えてないのは…君とは違う部分でその時のことを記憶してるから、かな」
目を伏せたフレンの姿が淋しげで、今度はユーリが目を瞬く番だった。
下町の暮らしは楽ではなかった。
今でこそ、日々の糧に困窮するほどではなくなったと言えなくもないが、それでも決して安寧な暮らしを皆が送れているわけではない。だが、ユーリ達が幼かったあの頃の状況はもっと酷いものだった。
娯楽もないそんな生活の中で、ある時一人の旅の男が下町に立ち寄った。なぜ、どんな目的でわざわざ結界の外を旅しているのか、詳しいことは何もわからない。大人の中には彼から何か聞いていた者もいたかもしれないが、それが子供たちに説明されたかどうか。
目的も理由もわからないが、彼は下町の子供達を集めて一人ひとりに小さな飴玉を渡すと物語を読んで聞かせた。
「なんとなくだけど…彼はそうやってあちこち旅してたんじゃないかな。行った先で同じように子供たちに話をして、少しでも楽しんでもらいたかったとか、そういう」
「よく覚えてんな…。オレなんかそいつの顔もなんも思い出せねえぞ。でもそういや飴は貰ったっけ。すっげえ嬉しかったし甘くてうまかったよな」
「うん…」
「…?なんだ?おまえも貰ったろ?」
「貰ったけど、食べてない」
「そうだったのか?なんで」
フレンが溜め息混じりに呟いた。
「君にあげたからだろ」
少し考えた後、どうやらユーリも思い出したようだ。そういやそうだったな、と返す表情に特に変化はなく、フレンは大げさに肩を落として見せた。
「僕はね、ユーリ。君が喜ぶ顔が見たかっただけなんだ」
「は?なんだいきなり」
旅の男から飴を手渡された時の、ユーリの嬉しそうな顔。
飴を口に入れた時の、ユーリの笑顔。
飴をくれた男が話を始めると、ユーリはきちんとその話を聞いていた。その様子が少し意外で、フレンは話そのものよりもユーリのことのほうが気になっていた。
『おとなしく話を聞いたら飴をあげよう』だったら、もしかして話に集中できていなかったんじゃないか。
そう言われて、しかしユーリはなんと言っていいものかわからなかった。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
ただ、飴は美味かったし話も途中で飽きるほど長くもなかった。だからちゃんと最後まで聞いたような気がする、と思うだけだ。相変わらずその男の顔は思い出せないし、フレンが言うほど真剣に聞いていたわけではないのだ、と。
「きっと、飴と一緒になって君の中で強く印象付けられたんじゃないかな」
「なんだそりゃ。オレが食いもんにしか興味ないみたいな言い方しやがって…」
「なんだか悔しいな。僕が飴をあげたことも覚えてなくて、それなのにそんなにその人の話は覚えてるだなんて」
「いや、そいつに飴もらったことだっておまえに言われるまで忘れてたし。話だってまあ…きっかけがあったから思い出しただけだって」
「ちゃんと内容を覚えてるんだろ?そんなに面白い話だったなら、僕ももっとしっかり聞いておけばよかったな」
ユーリからしてみれば、フレンがその時の話を覚えていないというか聞いていなかった、ということのほうが不思議だった。日頃、大人の話をきちんと聞くのはフレンのほうだったからだ。少なくとも、ユーリよりは。
おまえはなんで、話を聞いてなかったんだ?
当然の疑問を口にしたユーリの顔を、炎を挟んで暫し見ていたフレンの目元がふと緩んだ。
「僕は、ずっと君を見ていたから」
甘い飴に顔をほころばせ、話に瞳を輝かせる。
そんなユーリを、ただ隣で見ていたのだ、とフレンは言う。
話の内容は覚えていなくても、その時の状況は今でもはっきりと覚えているのだ、と。
『その風景の中に、嬉しそうなユーリがいたから』
そう言って笑う幼馴染を前にして、ユーリは言葉が出ない。その場にフレンがいたのはユーリだって覚えている。でもどんな様子だったとか、そもそもフレンが自分を見ていたということさえ気付いていなかった。
「君の喜ぶ顔がもっと見たくて、僕は自分の飴を君にあげたんだ。その時のユーリの笑顔も、ちゃんと覚えてるよ」
「…そう、か」
「だから悔しいよ。そういうのはすっかり忘れてて、そのくせ話の内容はしっかり覚えてて。そんなに面白い話なら、僕も真面目に聞いておけばよかった」
「いや…だから、別にものすごく面白いとか思ってるわけじゃねえって。ただなんとなく思い出して、思い出したら結構覚えてるもんだな、って思っただけなんだが」
「僕にも聞かせてくれないか」
「なに?」
「カロルに話したみたいに、僕にも教えてよ」
「はあ?冗談じゃねえ。カロルにあんだけ笑われて、おまえが笑わないとも思えねえしな」
「どんなふうに話したのか知らないけど、相当意外だったんじゃないか?そんなことはないのにね…。僕は笑ったりしないよ。だから聞かせて欲しい。ユーリが話してくれたら、きっと忘れない」
「オレはさっさと忘れてほしいんだよ、カロルにも」
「僕は知りたいし忘れたくない。飴と一緒に君を夢中にさせたそのお話とやらを知りたいな」
「そんなんじゃねえって言ってるだろ…!」
フレンの笑顔が非常に質の悪いものに思えて来て、ユーリががっくりと項垂れる。子供の頃の出来事の一つが思い出せずになんとなく気になって、軽い気持ちで聞いただけなのになぜこんなことになるのか。
ユーリが少しだけ顔を上げ、ちらりとフレンを窺う。
よく見れば少し寂しげにも思えるその笑みは、何故かユーリの心をちくちくと刺激した。
(なんでオレ、罪悪感感じてんだろ…)
フレンはどういうつもりで、寂しいとか悔しいと言うのだろうか。考えてもわからないのは、成長するにつれ離れている時間が増えていったからなのか…
再会し行動を共にするようになってから、そこに在るのが当然のように感じ、密かに安堵していた。実力差を悔しいと思うことは確かにあるが、それはフレンのいう『悔しい』とは違うような、そんな気もする。
考えても、わからない。
だが、とりあえず話をしなければフレンの気が収まりそうにないのだけはわかる。仕方なしにユーリは身体を起こすと、自分を見つめるフレンにやや投げやりな気持ちで言った。
「あーもうわかったよ!話せばいいんだろ話せば!もともとガキにするような話だ、大して面白いもんじゃねえからな!聞いたあとで文句言うなよ」
言わないよ、と笑うフレンに向け、ユーリはもう一度、件の話を語って聞かせることとなるのだった…
そら豆の腹んとこにさ、黒い筋があるだろ?
そう、そこ。最初はなかったんだよ、そんなの。
…だからそれを今から話すんだろ。黙って聞いとけよ。
は?なんでカロル先生と同じようにして喋ってやる必要があんだよ、話の内容が知りたいだけ…わかった、わかったから!
ったく…。
そら豆は旅に出るんだ。願い事が叶うってんで有名な神殿の話を聞いて、自分もそこに行ってみよう、って思ったんだよ。
唐突って言われてもな…そういうもんだろ、お伽話なんて。…これってお伽話なのかね…まあいいか。
途中で、炭と藁が仲間になる。何かっちゃあすぐ怒る炭と、頼りない藁と、お調子者のそら豆の3人旅だ。なんだかんだありながら、なんとか神殿の近くまで辿り着いた。細かいとこはさすがに忘れたよ。なんだかんだって何、ってカロルにも言われたな…。
で、その神殿に続く橋が壊れてて渡れねえんだ。
神殿はもう見えてる。でも目の前は崖、その下には急流。降りて渡れそうなとこもない、ましてや崖を飛び越えるなんて無理な話だ。
どうすっか、って考えてたら、藁が『自分が橋になる』って言い出した。…そうそう、藁の吊り橋。オレだったら絶対渡りたくねえけどな。でもまあ他に方法もないし、そら豆と炭は藁の橋を渡って向こう岸に行くことにした。
そら豆が先に渡ろうとしたら、突然炭の野郎が怒り出すんだ。
うん?ああ、常に燃えてる炭だよ。言ったろ、すぐ『おこる』って。
…だから、カロルと同じとこで同じツッコミしてんじゃねえよ。こういうのはな、シャレっつうかなんつうか…そういうひっかけってか、気づいたやつだけ楽しめばいいんだよ。ま、カロルはともかく、おまえみたいに頭の固いヤツはなかなか…あーはいはいわかりましたよ、続きな、続き。
その橋をどっちが先に渡るかってんで一悶着あるんだが、結局そら豆が折れて炭が先に渡ることになった。なんでって…知るかよ、そんなの。めんどくさくなったんじゃねえの?
先に渡りだした炭だったが、何故か橋の真ん中で止まっちまった。そのまま動かない炭に、そら豆がどうしたんだ、って声を掛けた。
炭のやつ、橋の真ん中まで来て下を見ちまったんだよ。
そ、下は川。落ちたら一巻の終わりだな。なんたって火が消えちまうからなあ。足がすくんで動けない炭に、早く行けってそら豆が言う。それでますますパニックだよな、炭は。
…お、さすがに気づいたか?
そう、炭は燃えてるんだよな。だから藁の橋の上でじっとしてたら橋に火がついちまって、哀れ炭は藁と一緒に真っ逆さま…ってわけだ。
それを見てそら豆は大笑いする。
だから…なんで、ってオレに聞くな!オレが作ったわけじゃねえんだよ、作ったやつに聞けよ!
橋を渡るときにケンカしたろ、それで『いい気味だ』とでも思ったんだろうさ。
何がツボに入ったか、そら豆は笑い続けた。笑って笑って…腹が弾けちまった。
…あー…言われてみりゃあ結構エグいのか?でもガキの頃はそんなの気にしねえし、そんぐらい大げさなほうがいいのかもな。どうせ作り話なんだしさ。
弾けた腹を見て、こんなんじゃ神殿に行けない、ってそら豆は嘆く。ってか、橋がないのにまだ行く気なのが大したもんだよな。
そこに、旅の商人が通りがかる。
そいつは糸を売り歩いてて、そら豆の話を聞いて『じゃあ自分が縫ってやろう』って荷物から糸を探しはじめた。
ところが、緑色の糸がちょうど切れてたんだ。けっこう豪快に割れた腹を縫うのには丈夫で太い糸を使いたいところなんだが、あいにくとそれが黒しかなかった。
…もうわかったろ?
その時に黒い糸で縫われたから、そら豆の腹には黒い筋が残った、って話だよ。
あ?神殿?
さあ…行ったんじゃね?続きがあったのかどうかすら覚えてねえよ。
これで終わりだよ、満足したか?
…だから言ったじゃねえか、大して面白い話じゃねえって…。
この話をしてくれたやつの語り口は面白かったのかもしれねえけど、オレが話しても…なんだ、何笑ってんだよ…笑うなっつったろ!
珍しい…?何がだよ、オレがこんな話しようと思ったことか?ああそうだな、オレもそう思うよ。もう二度とするつもりは…違う?何が違うってんだ。
おい、何で笑うんだよ…もう話は終わってるだろ。おまえといいカロルといい…何がそんなにおかしいんだよ?
笑うなって…!